君が代が「金(キム)が代」ってのは、案外ありえたりしてね。

君が代が「金(キム)が代」ってのは、案外ありえるのかもね。


アイヌ語では「神様」のことを「カムイ」と言いますが、昔の日本でも神は「カム」と発音されていたようで、その音韻の名残が、喩えば、日本中の神々が、十月に出雲大社に集まり各地の神様が不在となるため、十月を「神無月」と言ったとされる「神無月」の「かむなづき」。

カンナヅキ 神無月 かんなづき、かみなづき、かむなづき

かみなしづき、かみさりづき(神去月)、とも。日本の伝承、暦の月の名前。陰暦10月のこと。

陰暦十月、日本各地の八百万の神々が出雲大社に集まるため、諸国の各地を留守にするのでこう言われるという。 出雲では神在月(かみありづき)という。

その他、

かん‐ぬし【神主】-日本国語大辞典
〔名〕(「かむぬし」とも表記)

かむ‐みや【神宮】
かむ‐どの【神殿】
かむ‐なぎ【巫/覡】
かむ‐よごと【神寿詞】
かむみそ‐の‐まつり【神御衣の祭】
かむなび‐やま【神奈備山】
かむ‐なめ【神嘗】
かむ‐のぼる【神登る/神上る】
かむ‐はかり【神議り】
かむ‐はらう【神掃ふ】
かむぶ【神ぶ】
かむ‐ほく【神寿く/神祝く】
かむ‐みそ【神御衣】

その発音の名残は多々ありますが、その「カム」が、現在では「神様」(カミサマ)の「カミ」と、「ム」から「ミ」に音韻が変化してますが、

「金(キム)」から「「金(キミ)」と音韻変化も、あながちありえたりして。。。

「神かむm」と「神かんn」の考察 本居宣長vs上田秋成
http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2006/10/vs_22f5.html
から

 【日本語の世界7『日本語の音韻』】小松英雄中央公論http://saturniens.air-nifty.com/sennen/2005/05/post_7db7.html  でも紹介したように、戦後「近代かな遣い」になるまでの日本語は、「あはれ」と書いて「アワレ」と読むような使い方をしてきました。

 この「表記」と「発音」の違いを研究していた本居宣長は、『古事記』や『万葉集』などに記された古代の万葉仮名「加牟加是(神風)」という表記を見て、「神」を【(かん)n」とは発音しなかった、「神」は【加牟(かむ)mu】と発音していた、古代に「ん」【n】」という発音は無かったと言い切っているのです。

 本居宣長はこうした【む】のような歴史的仮名遣いのことを「字音仮名遣」と言いました。「行かん(n)」は【行かむ(mu)】であったし、「帰らん(n)」は【帰らむ(mu)】であった。

 「三位一体」という場合の「三位」は【さんい】とは読まず【さんみ(mi)】と呼びます。これは「三」という字を【さん(san)】と読まず、【さむ(samu-i)】と呼んでいたことの名残だと思うのですが、「陰陽」を【おんよう】ではなく【おむ・よう】であったからこそ、【omu-yo】【おんみょう】と発音したのだという例などをあげ、本居宣長は【ん(n)】はすべからく【む(mu)】と呼んだという自説を説いていくのです。

 そもそも日本語の漢字の表記に「ん」の字が無い。それこそ【ん】は無かったという証拠だということを宣長が言ったのでしょう。

 【日本語の世界7『日本語の音韻』】にも書きましたように、アイヌ語では「神様」のことを「カムイ」と言います。まさにこれなどは宣長が言う【神(かむ)】という発音の名残と思いますが、古代には【wa・wi・wu・we・wo】という発音や【mwa・mwi・mwu・mwe・mwo】というような発音、【pfa・pfy・pfu・pfe・pfo】のような「ぱ」か「ふぁ」か分からないような発音、あるいは【fwa・fwi・fwu・fwe・fwo】【wha・whi・whu・whe・who】のような、「は」か「わ」か分からないような発音があったと思われるのです。

 「神」は【かむ】と書かれ、【かん】と読まれた。「行かん」ということを書くときは【行かむ】であったし、「帰らん」は【帰らむ】と書いた。大阪の「浪速」「難波」は【なには】と書かれ、読むときは【なにわ】と読んだ。「蝶々」は書くときは【てふてふ】と書かれ、読むときは【ちょうちょう】と読んだ。【どぜう】と書いて【どじょう】と読み、「南無阿弥陀仏」は【なんまいだー】と読まれていく。


また、君が代についてはwikipediaに面白いいわれがあったりしてね、、

wikipedia:君が代より

九州王朝時代を起源とする説

 九州王朝説を唱えた古田武彦は自ら邪馬壹国の領域と推定している糸島半島や近隣の博多湾一帯のフィールド調査から次のような「事実」を指摘している[33][34]。

 「君が代」は、金印(漢委奴国王印)が見つかった福岡県・志賀島志賀海神社で4月と11月の祭礼(山誉め祭[35])として以下のような神楽歌として古くから伝わっている。なお、この山誉め祭は、民族学的に価値のある神事として、福岡県の県指定の無形文化財に指定されている。

君が代<だい>は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸<みがい>に命<いのち> 千歳<せんざい>という
花こそ 咲いたる 沖の御津<おんづ>の汐早にはえたらむ釣尾<つるお>にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良<いそら>が崎に 鯛釣るおきな

— 山誉め祭, 神楽歌


 糸島・博多湾一帯には、千代の松原の「千代」、伊都国の王墓とされる平原遺跡の近隣に細石神社の「さざれ石」、細石神社の南側には「井原鑓溝遺跡」や「井原山」など地元の方が「いわら=(いわお)」と呼ぶ地名が点在し、また桜谷神社には苔牟須売神(コケムスメ)が祀られ極めて狭い範囲に「ちよ」 「さざれいし」 「いわら」 「こけむすめ」と、「君が代」の歌詞そのものが神社、地名、祭神の4点セットとして全て揃っていること。

 細石神社の祭神は「盤長姫(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫コノハナノサクヤビメ)」、桜谷神社の祭神は「木花咲耶姫コノハナノサクヤビメ)」と「苔牟須売神(コケムスメ)」であるが「盤長姫命(イワナガヒメ)」と妹の「木花咲耶姫コノハナノサクヤビメ)」は日本神話における天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノ尊)の妃であり日本の神話とも深く結びついている。

 上記の事から、「君が代」の誕生地は、糸島・博多湾岸であり「君が代」に歌われる「君」とは皇室ではなく山誉め祭神楽歌にある「安曇の君」(阿曇磯良?)もしくは別名「筑紫の君」(九州王朝の君主)と推定。

 『古今和歌集』の「君が代」については本来「君が代は」ではなく特定の君主に対して詩を詠んだ「我が君は」の形が原型と考えられるが、古今和歌集醍醐天皇の勅命によって編まれた『勅撰和歌集』であり皇室から見ると「安曇の君」は朝敵にあたるため、後に有名な『平家物語』(巻七「忠度都落ち」)の場合のように“朝敵”となった平忠度の名を伏せて“読人しらず”として勅撰集(『千載和歌集』)に収録した「故郷花(ふるさとのはな)」のように、紀貫之は敢えてこれを隠し、「題知らず」「読人知らず」の形で掲載した。

 糸島・博多湾一帯[36]は参考資料[37]」を見るように古くは海岸線が深く内陸に入り込んでおり、元来「君が代」とは「千代」→「八千代(=千代の複数形=千代一帯)」→「細石神社」→「井原、岩羅」と古くは海岸近くの各所・村々を訪ねて糸島半島の「桜谷神社」に祀られている「苔牟須売神」へ「我が君」の長寿の祈願をする際の道中双六のような、当時の長寿祈願の遍路(四国遍路のような)の道筋のようなものを詠った民間信仰に根づいた詩ではないかと考えられる。


山誉種蒔漁猟祭(やまほめたねまきかりすなどりのまつり)1八乙女の舞
国宝・金印出土地 志賀島志賀海神社に古より伝わる 山を誉め、田畑の豊作と海での豊漁を祈る祭り。

http://youtube.com/watch?v=4zdqfUk1VoQ